LOGIN清音に案内されて、梓は坂道を上っていく。
たどり着いたのは、こぢんまりとした平屋。瓦屋根にはところどころ苔が生えていて、雨どいは赤くさびて穴が開いている。
それでも軒先には風鈴が下がっていて、かすかな風にちりんと鳴る。梓が来る前に整理と清掃をしたのだろう。つい昨日まで誰かが住んでいたような、そんな気配が残っている。
「……ここ、好きに使ってね。不自由があったらいって」
清音は柔らかく言葉を紡ぐ。
玄関の戸に手をかけた。重い戸がきいっと音を立てて開くと、畳の匂いがふわりと鼻を打った。湿り気を帯びた青い匂いと、押し入れの奥からにじみ出てくる古い木の匂いが混ざり合って、東京のマンションでは絶対にかげない、重たい空気を作り出している。
懐かしいような、不安になるような、複雑な匂い。「……あれ、扉に鍵がないですね?」
「ふふ、小さな村じゃけん、どこも開けっぱなしやね」
清音が小さく笑みを漏らす。すると人形めいた美貌が、不意に人の温度を伴い何とも蠱惑的な色を浮かべた。
思わず赤くなりながら、梓はそうか、ここでは村の人たちは皆家族みたいなもので、家と言っても自宅の部屋のようなものなんだ、と考える。
母の故郷は、不便かも知れないけれど、随分と安心できる場所みたいだ。梓は靴を脱いで、荷物を置いて廊下を歩く。冷たい板の間にぺたぺたと足音が響く。障子は黄色く変色していて、ところどころ紙が破れている。ふすまの取っ手は長年の使用ですり減って、触るとざらざらした感触が残る。
玄関脇の土間からすぐに流し台があって、そこで料理を煮炊きできるようだ。野菜などは土間に置いておけて合理的なのかも知れない。
流し次第の前に立つと、清音が蛇口をひねってくれた。少し間をおいてから水が出てくる。鉄さびの匂いがして、口に含んだら苦い味がしそう。清音は黙って流し台をふき、小さな急須を取り出す。
「……居間で少し待って」
やかんに火をつける音がした。梓は戸惑いながら奥に進む。
土間からすぐに居間があった。小さなちゃぶ台と、座卓。部屋の隅には石油ストーブ。太い柱に止まっている時計がかけられている。
座卓に座る。台所で清音がお湯を注ぐと、湯気に古いお茶の葉っぱの香りが立ちのぼった。
程なくして清音が盆にのせて、急須と湯飲みを二つ持ってきた。
「お茶、入った」
「あ、ありがとう、虚木さん」
「清音、でええよ?」
「……清音さん」
「清音」
「……清音」
頬を染めながら梓が呼ぶと、清音は我が意を得たりと笑みを深める。
「はい、どうぞ。長旅お疲れやったね」
湯のみを渡してもらう時、二人の指先がほんの少し触れ合う。
「――あ」
思わず声が出る。ひやりとした感触が、熱い湯気よりも強く梓の皮膚に残った。お互い何も言わず、清音は少しだけ微笑み、目を伏せて手を離す。
そのしぐさ一つで、梓の心臓がまたどトクンと跳ね上がる。居間の窓を開けると風が吹きこんで、薄いカーテンが大きくふくらんだ。外には畑が広がっていて、その向こうに山が何重にも緑を重ねている。夕日が差しこんで、畳の上に長い影を落とす。とても美しい光景のはずなのに、なぜかさびしく見える。
お茶を飲み終わると、清音はすっと立ち上がった。
「今日は、これで」
それだけ言うと玄関の方へ歩いていく。梓も慌てて立ち上がって、あとを追う。
引き戸の前で振り返って、梓は深々と頭を下げた。「ありがとうございました」
清音は何も言わず、ただこくりと頷いた。その横顔は夕暮れの光にほんのり照らされている。
戸を閉める直前、清音の唇がかすかに動いた。
「好いたらしい子やね」
それが梓に聞こえたのか聞こえなかったのか――。
静かな足音が遠ざかって、家の中には梓一人きりが残される。梓はカバンから小さなノートを取り出した。いつの間にか、見たものや感じたことを文字にして残さずにはいられなくなっている。
本ばかり読んでいた頃の延長かもしれない。言葉にしてとっておかないと、自分がここにいたことさえ消えてしまいそうで。記憶も気持ちも、霧のように薄れていってしまいそうで。
ページの隅に、震える文字で書きつけた。
――「畳の匂い、湿った土の匂い。母親の影がまだここにある」鉛筆を置いた瞬間、胸の奥にざわざわと波が広がる。
怖いのでも、安心でもない。ただ、言葉にできない揺れだけが残る。ピュールィーーーー! 山鳥の声が、梓の胸の奥を揺さぶる。東京ではもう失われていた感覚。 村へ来て数日。今日から梓は学校に通うことになる。小さな分校で、生徒は三十人ほど。小学生から高校生までが一緒の校舎で学ぶのだそうだ。 舗装道路はところどころひびが入っていて、すきまから雑草が顔をのぞかせている。朝つゆをまとった草が足首に触れるたび、ひやりと冷たさが走る。スカートのすそが濡れて重くなる。山の鳥の声は澄み切っていて、東京で聞いたどんな音よりも大きく、まっすぐ耳に飛びこんでくる。 通学路の途中に、小さな平屋を改装した建物がある。「吉川診療所」と書かれた看板が、少し傾いて掛かっていた。その隣には「榊商店」という古い木の看板を掲げた店がある。 診療所の入り口前では、若い医師が白衣姿で村人たちと話していた。「吉川先生、本当に助かるけぇな」「この辺りは昔からお医者さんがおらんくて、先生がいらしてくださって心強いとよ」 村人たちは口々にお礼を言い、みんなにこにこ笑っている。 吉川と呼ばれた医師は三十歳くらいの若い男性だった。背は高くないが、白衣を着ているせいか きちんとして見える。黒髪は寝癖が少し残っているものの清潔で、黒縁眼鏡の奥の瞳には優しさと同時に、どこか疲れたような影が宿っていた。「ありがとうございます。できることには限りがありますが……」 彼は愛想よく微笑むが、どこかぎこちない。村人との会話も丁寧だが、微妙に間が空いて、慣れていない様子が伝わってくる。「先生、また夜中までお仕事でしたでしょう」 雑貨店の方から、エプロン姿の女性が顔を出した。二十代後半ほどの美しい人で、困ったような優しい笑顔を浮かべている。「千鶴さん、いえ、その……」 吉川は慌てたように手を振る。「電気がついてましたから、心配していたんです。ちゃんと食事とっていますか?」「大丈夫です、ちゃんと……」 彼の答えが曖昧なのを見て、千鶴と呼ばれた女性は小さく溜息をついた。 村人たちはそんな二人のやりとりを見て、微笑んでいる。「千鶴さんがおってくださって、先生も安心じゃな」「そうそう、お一人じゃあ心配じゃったけぇ」 吉川は照れたように頭を掻く。千鶴さん、と呼ばれていたのは商店の人だろうか? 方言がないから、二人もまた移住者なのだろう。でも村の人たちに受け入れられ、溶け
清音に案内されて、梓は坂道を上っていく。 たどり着いたのは、こぢんまりとした平屋。瓦屋根にはところどころ苔が生えていて、雨どいは赤くさびて穴が開いている。 それでも軒先には風鈴が下がっていて、かすかな風にちりんと鳴る。梓が来る前に整理と清掃をしたのだろう。つい昨日まで誰かが住んでいたような、そんな気配が残っている。「……ここ、好きに使ってね。不自由があったらいって」 清音は柔らかく言葉を紡ぐ。 玄関の戸に手をかけた。重い戸がきいっと音を立てて開くと、畳の匂いがふわりと鼻を打った。 湿り気を帯びた青い匂いと、押し入れの奥からにじみ出てくる古い木の匂いが混ざり合って、東京のマンションでは絶対にかげない、重たい空気を作り出している。 懐かしいような、不安になるような、複雑な匂い。「……あれ、扉に鍵がないですね?」「ふふ、小さな村じゃけん、どこも開けっぱなしやね」 清音が小さく笑みを漏らす。すると人形めいた美貌が、不意に人の温度を伴い何とも蠱惑的な色を浮かべた。 思わず赤くなりながら、梓はそうか、ここでは村の人たちは皆家族みたいなもので、家と言っても自宅の部屋のようなものなんだ、と考える。 母の故郷は、不便かも知れないけれど、随分と安心できる場所みたいだ。 梓は靴を脱いで、荷物を置いて廊下を歩く。冷たい板の間にぺたぺたと足音が響く。障子は黄色く変色していて、ところどころ紙が破れている。ふすまの取っ手は長年の使用ですり減って、触るとざらざらした感触が残る。 玄関脇の土間からすぐに流し台があって、そこで料理を煮炊きできるようだ。野菜などは土間に置いておけて合理的なのかも知れない。 流し次第の前に立つと、清音が蛇口をひねってくれた。少し間をおいてから水が出てくる。鉄さびの匂いがして、口に含んだら苦い味がしそう。清音は黙って流し台をふき、小さな急須を取り出す。「……居間で少し待って」 やかんに火をつける音がした。梓は戸惑いながら奥に進む。 土間からすぐに居間があった。 小さなちゃぶ台と、座卓。部屋の隅には石油ストーブ。太い柱に止まっている時計がかけられている。 座卓に座る。台所で清音がお湯を注ぐと、湯気に古いお茶の葉っぱの香りが立ちのぼった。 程なくして清音が盆にのせて、急須と湯飲みを二つ持ってきた。「お茶、入った」「あ、ありがとう
胡瓜をくれた老婆に連れられて、梓は村長の家へ向かった。 村の中でもひときわ立派な平屋建ての家。高い石垣の上に広い敷地があって、黒光りする木の門がどっしりと構えている。他の家とは明らかに格が違う。 門の前まで来ると、老婆は立ち止まった。「さあ、ここからは一人で行きなさい。村長さんには、きちんとご挨拶なさるのじゃよ」 そう言って、胡瓜を抱えた梓の背中をぽんと押すと、にこやかに手を振りながら帰っていってしまった。小さな後ろ姿は、あっという間に道の向こうに消えてしまった。 一人で残された梓は、重々しい門を見上げる。胸の奥でどきどきと心臓が騒いでいる。もうあとには引き返せない、そんな気配がひしひしと迫ってくる。 門をくぐると、庭一面に白い砂利が敷き詰められている。立派な松の木が一本、風にゆらゆら揺れている。足音が砂利を踏むたび、じゃりじゃりと音がして、それだけで胸がきゅっと縮こまった。 玄関の引き戸を開けると、土間にひんやりした空気が流れこんでくる。磨きこまれた板の間の奥から、低くて太い声が響く。「弓子さんの娘さんじゃな。よぉ来た。まぁあがりんさい」 姿を現したのは、五十を過ぎたくらいの男の人。背が高くて、顔には深いしわが刻まれている。目もとは優しく微笑んでいて、落ち着いた威厳を感じさせる人物のように見える。「お邪魔します」 玄関を上がると、すぐに広い居間に通された。 畳は新しく張り替えられたばかりらしく青い匂いが立ちのぼっている。壁際には古い箪笥が一つあるだけで、座卓の上にも何も置かれていなかった。 広さのわりに、座布団は三枚だけ。村長は座布団に座り、梓にも座るように勧める。 人の暮らしの跡が見えないせいで、部屋はやけにがらんとして、声を出せば畳の目にまで吸い込まれてしまいそうだった。「矢野梓です。どうかよろしくお願いいたします」 座布団に正座した梓は、村長に向かって頭を下げた。「わしは村長の虚木清一ちゅうもんじゃ。弓子さんとは昔からの馴染みじゃけぇな」 また母親の名前が出た。梓の胸がざわざわつく。でも村長の温かい眼差しに、少しだけ気持ちが和らぐ。「ここはいい村じゃ。あんたが不自由なく暮らせるよう、色々準備してあるけんな」 笑みを浮かべて清一は続ける。「この村は、あんたのふるさとでもあるんじゃけん。気兼ねせず何でもいうてくれ
バスが走り去ってしまうと、停留所には梓だけがぽつんと残される。 エンジンの音が山の向こうに吸い込まれていくと、今度は静けさがわあっと戻ってくる。アスファルトには白い砂利がぱらぱら散らばっていて、どこからか土や草の匂いがふわりと漂ってくる。 東京の空気とは全然違う。胸の奥までしみこんでくるようで、なんだか落ち着かない。のどの奥がちりちりする。 ベンチの下を見ると、古い段ボール箱が置いてある。中にはさつまいもや胡瓜がころころ入っている。まだ土がついていて、畑の匂いがする。誰が置いていったのだろうか。「おや、新しい人じゃな」 いきなり声をかけられて、梓はびくっとした。振り返ると、腰の曲がった老婆が立っている。薄汚れた紺の作業着に、色あせた手拭いを頭に巻いている。顔は深いしわに刻まれて、小さな目が優しそうに細められている。しわだらけの手で箱から胡瓜を一本取り出して、にこにこしながら差し出してくれる。「遠いところ、お疲れさまやったのぅ。ずっと待っとりましたけぇな」 知らない人からいきなり野菜をもらうなんて、東京では考えられない。どうしていいかわからなくて、梓は固まってしまう。「あ、ありがとうございます」 やっとそれだけ言って、胡瓜を受け取った。冷たくて、ざらざらした土の感触が手に残る。 老婆は満足そうに頷くと、「それより」と言った。「村長さんのところまでお連れしとくけぇな。新しく来られた方は、まずご挨拶をしてもらうことになっとるんよ」 そう言うと、さっさと歩き出してしまう。梓は胡瓜を握ったまま、ちょっと困ってしまった。荷物を置く前に、いきなり村長さんのところへ? 東京の常識とは違いすぎて戸惑ったけれど、断るわけにもいかない雰囲気である。 夕方の坂道に、老婆の小さな背中を追いかける梓の影が長く伸びていく。◆ 停留所から歩いていくと、なだらかな坂道に出た。 両側には田んぼが広がっていて、青い稲がそよそよと風に揺れている。「おお、弓子さんのお嬢さんか」 梓の足がぴたりと止まった。心臓がどくんと大きく跳ねる。どうして母親の名前を知っているの? 田んぼのあぜ道から現れたのは、中年の男。背中に古びた猟銃袋を背負い、片手には羽根の乱れた山鳥をぶら下げている。血と羽毛の匂いが風に乗って漂い、梓は思わず息を詰める。 男はにこりと笑って、鳥を梓に差し
少女はメモを執っていた。揺れ動くバスの座席で。一心不乱に。 スマホの画面を見ると「圏外」の文字が表示されている。これから向かう村は電波が通じていないと聞いていたが、もう圏外なんだ、と梓は画面の文字を見つめ、スマホをカバンにしまい込んだ。 膝の上で小さなメモ帳を開きながら、いつもならスマホでメモを取るところなのに、久しぶりにメモと鉛筆。でもこんな古いやり方も良いかも知れない、と梓は筆を走らせる。「山、薄墨色」「バスの音、お腹の中みたい」 思いついたことを鉛筆でちょこちょこ書きつけているが、手に力が入らなくて、文字がふらふらしてしまう。がたん、がたんと車体が揺れるたび、梓の頭も左右にゆらゆら揺れて、なんだかおかしくなってくる。 矢野梓、十七歳になったばかり。小柄で、どちらかというと細い方で、肩まで伸びた黒い髪がバスの振動で少しずつ乱れている。頬にかかるたびに、うっとうしそうに手で払いのけている。 東京にいた頃より顔色が悪いような気がするのは、黒いカーディガンに紺のスカートという地味な格好が、まだ葬式の名残を引きずっているからだろう。 真っ白なメモ帳の上を鉛筆がずっと走り続けている。 母親の葬式の日から、梓はこうして何でも書き留めるようになっている。書いておかないと、自分がここにいることさえ怪しくなってしまいそうで。 心の奥が氷みたいに冷たくなってしまって、何を見ても何を聞いても、まるで遠いところの出来事みたいに感じられるのだ。だから、せめて言葉だけでも残しておこうと思うのである。 窓の外では、山並みがゆったりと流れていく。春めいてきたというのに、木々の枝先はまだ重たい冬の色をしている。山肌は薄墨を流したような灰色で、ところどころに雲の影が這っている。 新幹線を降りて、ローカル線に乗り換え、それから更にバスに乗り換えて既に二時間近く。 舗装の古い道路をバスのタイヤが踏むたび、がたん、がたんと音がする。船に乗ったことはないけれど、きっと船酔いってこんな感じなのかもしれない、そんなことを思いながら。 窓ガラスに映った自分の顔を見ると、なんだかよその人みたいで、梓は慌てて目をそらしてしまう。 カバンの中には、母親の写真を大事にしまってある。小さな額に入れた遺影。胸が痛くなるはずなのに、やっぱり痛みは遠くて、ただぽっかり穴が空いたような感じがす
その封筒は、ある朝、郵便受けの底に差し込まれていた。 消印もなければ宛名もなく、切手さえ貼られていない。誰が、ここに入れたのか、偶にある誰かの悪戯なのかもしれない。 と言うのも、私は怪談や心霊事件を専門に扱うライターで、職業柄その手の情報には常にアンテナを立てている。匿名のタレコミも少なくはない。 豊島区の雑居ビルの四階。六畳の狭い一室を事務所にしてから、もう十年が経つ。机の上には、読者から届いた体験談や古書店で見つけた郷土誌の切れ端が積み重なり、見慣れた光景になっている。言わばその手の物には慣れっこになっていた。 だがその封筒は、見た瞬間から異質だった。 紙がふやけており、指先でつまんだ瞬間、ぞっとした。沈むように柔らかく、乾ききらない布か、濡れた皮膚に触れているような感触。封筒の縁はほつれ、赤黒い染みが浮かんでいる。封を切るまでもなく、中の紙が湿気で膨らんでいるのが見て取れた。 やがて意を決して刃を入れる。 紙は想像以上に脆く、ぺりぺりと音を立てて裂けた。その瞬間、甘い匂いが顔に向かって立ちのぼる。花の蜜にも似ているが、鼻の奥を刺すように重く、鉄の匂いが混じっている。長く嗅げば吐き気を催しそうな匂いだった。 中には、小さなメモ帳がばらばらに分解された状態で入っていた。リングは外れ、紙片は血のような染みに汚れている。 文字は若い女の丸い筆跡で、ところどころ滲み、判読できない箇所が多い。ほかに、大人の几帳面な日記、役場の書式の物と思われる記録用紙、筆跡の異なる断片が数枚。まるで誰かが意図的に切り取り、封じ込めたように寄せ集められている。 私は机の上に広げ、一枚ずつ目を通した。そこに記された言葉は、恐怖に追い詰められた者の悲鳴ではない。声を荒らげるでもなく、嘆きもなく、ただ氷の底に沈められたような温度で書かれている。感情の痕跡が欠け落ちた記録。淡々と事実だけが並んでいた。 ――これはただの資料ではない。書いてあることは異常だが、実際に起こったことだ。 私は自らの直感にしたがい、この記録の裏付けを取り始めた。 同時にこれを題材にした小説を書き始める。 資料を探し求め、郡役場の古い報告書を請求し、診療所に残されたカルテを写し取り、村から離れた住民に話を聞き取る。古書店で見つけた郷土誌には「肉ゑ神」の名が記されていた。明治期の民俗調査の付録に